え~・・・M科のみなさんには関係ないはずなのですが、でも最後まで読んでください。アレがあります。どうやら真下のクラスでは冬休みに英語Rの翻訳の宿題を出されてしまったらしく、まあ例のごとく
去年の冬休みを見事に潰してくださったあの方らしいですがね。
そこでまあ俺が代わりにやってみました。でも最後まで読んでください。アレがあります。
そしてもちろん
訪問者稼ぎに決まってんですよ。
今回はまたいろいろと問題があって・・・まあ詳しい解説は翻訳の最後に。
それとコピペ直刷りはやめてくださいというかやらないことをお勧めします。
完全に正しいという保証がないですし、やっぱレポートはオリジナリティが必要なのです。
ちなみに④が少し手抜きなのですがご容赦を。あと長いので誤字脱字も・・・
聞いた話ではレッスン9ですよね。ってわけで早速いってみましょうか。
① 1950年代
この写真を見て下さい!あなたはこのドレスが第二次世界大戦後の1947年にまもなく披露されたと信じることが出来ますか?
「ニュールック」と呼ばれるこのスタイルは、クリスチャン・ディオールによってデザインされました。60年代中頃まで、フランスは流行の先頭に立つ国でした。新しいドレスには、高価な生地を使うフレアスカートや、きっちりした腰のくびれ、ナチュラル・ショルダー(肩パッドなしの自然な肩)がありました。
戦時中景気がとても厳しかったとき、人々はお金を慎重に使わなければなりませんでした。彼らの着ていた衣服がその影響を示しています。最も多くのスタイルは、デザインの少ない、地味で簡素というよく似たものだったのです。これらのドレスは安価で、毎日着るのには実用的でした。
戦後、女性は流行の変化を熱望していました。これがディオールの「ニュールック」がすぐに人気になった理由の一つです。それは女性に流行の美と豪華さを思い起こさせました。(人が)流行を追うロンドンのウエスト・エンドでは、二週間で700を超えるニュールックのドレスが売れました。
ディオールは流行を劇的に変化させたのです。私たちはそれが流行の歴史の新たな出発点であると言うことが出来ました。
② 1960年代
1960年代は変化と反乱の時代でした。アフリカでは多くの植民地が独立を勝ち取り、アメリカでは公民権運動によって遂にアフリカ系アメリカ人により多くの自由が与えられたのです。さらにベトナム戦争に反対する多くの抗議が世界中でありました。この時期、若者たちはこれらの活動だけでなく、流行の中でも重要な役割を果たしました。
ビートルズ(イギリスのロック・グループ)はこの時期のシンボルです。彼らの音楽と流行は、新しく刺激的ななにかを表現していました。何百万もの若者が、彼らの歌のタイトルに記されるように、「愛こそすべて」という「新たな希望」を共有したことを示す方法を真似たのです。さらに、ファッションモデルのツィギーは、ミニスカートを60年代のシンボルにしました。ミニスカートとビートルズの流行は、若者たちの伝統的な方針に対する反発を映し出しました。
私たちが今日でもミニスカートをみるというのは面白いことなのです。まもなくこのスタイルは50年を巡る(迎える)でしょう。
③ 1970年代
ミニスカートはマリー・クワントによってデザインされました。彼女はロンドンのカーナビーストリートで少女たちが着用していた短いスカートに影響を受けたのです。若者たちの集まった通りの区域は、新しい流行の源でした。
「ストリートファッション」は二つの違う方法で発展して行きました。一つは私たちが先ほどすでに知ったように、ミニスカートの誕生に象徴される方法です。デザイナーたちが「ストリートファッション」を取り上げて、世界中で人気な流行に定着させました。もう一つは通りにいる若者が着用していたものをコピーして、彼ら自身に広まっていくという方法です。
後者の一つよい例はヒッピーファッションです。ヒッピーは従来の社会の基準や習慣の多くに反対して拒絶していた若者たちでした。彼らは戦争に強く反対し、愛や平和を賞賛していました。彼らのうちの多くは長髪でベルボトムを着用していました。彼らの「ヒッピースタイル」は世界中で人気になり、1970年代の流行を典型的に占めました。
④ 1980年代と1990年代
女性の高い社会地位はこの期間に大幅に増加しました。1979年には、マーガレット・サッチャーがイギリスの首相になったのです。婦人服はこの新しい「力」を表現するようになりました。
ドレスはそれらの女らしさを示す大きなショルダーパッド及び狭いウエストを持ち合わせていました。
要するに、1980年代の女性は「成功のために着こなす」と言われていたのです。
1990年代までに女性の社会的地位が確立され、経歴のある女性(キャリアウーマン)は現在では一般的に受け入れられています。従って、男女の衣服の境界線は曖昧になりました。流行は男女両用でより融通のきくようになりました。人々はきついズボンと緩いズボンを着用していました。女性はミニスカートとロングスカートを着用していました。思いがけない衣服が様々な機会に受け入れられました。
従って、流行の歴史をさかのぼって調べる場合、私たちは時間が経つにつれ文化、社会、芸術、政治及び経済状態には人気の流行が密接に関係しているのだと理解することができます。
流行はいつでも常に人々の生活様式や雰囲気、特定の地域の状況を反映する主な方法の1つなのでしょう。
以下は恒例のおまけ。禁断の爆笑エキサイト翻訳です。
間違っても参考にしてはいけません。
この絵を見てください! あなたは、このドレスがWorld戦争?Uのすぐ後に1947年に導入されたと信じることができますか?
「ニュールック」と呼ばれるこのスタイルはクリスチャンディオールによって設計されました。 ファッションで60年代の半ばまで、フランスは先進国でした。 新しいドレスには、フレア・スカートが高価な織物、きついウエスト、自然な肩、および#8211というのを使用することでありました; ショルダーパッドなしで。
時勢が非常に困難であったときに、戦争の間、人々は慎重に私費を投じなければなりませんでした。 それらが着ていた衣服はこの関心を示します。 ほとんどのスタイルが同様、そして、#8211でした; 多くのデザインなしで明瞭であって、簡単です。 普段着に、これらのドレスは、安くて、実用的です。
戦後に、女性は新しい変化に流行していた状態であこがれていました。 これはディオールの「ニュールック」が急速にポピュラーになった1つの理由です。 それはファッションの美とぜいたくについて女性に思い出させました。 Newと共に700以上のロンドンのおしゃれなウェストエンドで装う、ほら、2週間の販売されたコネはそうです。
ディオールはファッションを劇的に変えました。 私たちは、それがファッションの歴史のための新しい出発点であったと言うことができました。
1960年代は変化と反逆の一区切りでした。 アフリカでは、多くの居留地が独立を得ました。 合衆国では、公民権運動が最終的にアフリカ人と#8211というのを与えました; アメリカ人、 より多くの自由。 また、世界中の多くの抗議がベトナム戦争に反対していました。 若年層はこれらの動きで重要な役割を果たしただけではなく、このとき、また、ファッションでも重要な役割を果たしました。
ビートルズ(イギリスのロックグループ)は今回のシンボルです。 それらの音楽とファッションは何か新しいものと出ることを言い表しました。 何百万人もの若年層が彼らがこの「新たな望み」を分担したのを示すために彼らのファッションを模倣しました、「あなたが必要とするすべてがLoveです」という彼らの歌のタイトルによって説明されるように。 また、ファッションモデル(Twiggy)はミニスカートを60年代のシンボルにしました。 ミニスカートとビートルズのファッションは伝統的な道に対する若年層の反逆を反映しました。
私たちが今日まだミニスカートを見ているのは、おもしろいです。 すぐ、このスタイルは50年間周囲にあってしまうでしょう。
ミニスカートはマリークワントによって設計されました。 彼女はロンドンでカーナビー・ストリートで少女によって着られた短いスカートによって奮い立たせられました。 集められた若年層が「通りファッション」になっていた領域の通りは2つの異なった方法で開発されました。 ミニスカートが恩恵であった方法で表されて、私たちが既に見たように1つはそうでした。 デザイナーは、通りのファッションを拾って、世界中のポピュラーなファッションとそれを書き立てました。 もう片方が通りの上の他の若年層が着ていたものをコピーすることによってファッションを広げる若年層自身でいました。
後者の1つの好例がヒッピーファッションです。 ヒッピーは社会の従来の規格と慣習の多くに反対して、拒絶した若年層でした。 彼らは、強く戦争に反対して、愛と平和を奨励しました。 彼らの多くが、長い髪をして、ベルボトムを着ていました。 それらの「ヒッピー・スタイル」は、世界中でポピュラーになって、1970年代の典型的なファッションを支配しました。
社会の女性の状態はこの期間、大いに増加しました。 1979年に、マーガレット・サッチャーはイギリスの内閣総理大臣になりました。 女性の衣服はこの新しい「パワー」を言い表しました。 ドレスには、また、彼らの女らしさを示した大きいショルダーパッドと狭いウエストラインがありました。 要するに、1980年代の女性は「成功を飾り立てます。」と言われました。
1990年代までには、キャリア女性は、今や、一般的であり、受け入れました。(その時、社会における女性の状態は確立するようになりました)。 それに従って、女性の衣服と雄衣服の間の線はあいまいになりました。 ファッションはユニセックスで、よりフレキシブルになりました。 人々はきついものと同様にゆるい適当なズボンをはいていました; 女性はミニスカートとロング・スカートを着ていました。 また、カジュアルな衣服を着るのは様々な時にさらに受け入れるようになりました。
ファッションの歴史の間見返すとき、したがって、私たちは、時間が過ぎるときポピュラーなファッションが密接に文化、社会、芸術、政治、および経済状況に関連するのを理解することができます。 ファッションは、いつもあって、ある時代の人々がライフスタイルを反映する主な方法の1つと、ムードと大気になるでしょう。
ってわけでした。最後とか意味不明でしょ?
あとは・・・
まあ今回の翻訳は何が苦労したかって言うと・・・
参考文献が無い!
っぽかったことです。一角獣まで味方してくれないなんて・・・
去年の「沈黙の春」とかイースター島のやつとかは、教科書の最後のページを見ると分かるように原書があるみたいなんです。
それで今年の夏休みにチャリで往復2時間覚悟で県立図書館までいって「緑の世界史」って本を読んで完成させた話・・・まあ予備知識のカテゴリのどっかに書いてあるでしょう。
あとどうでもいいんですが、
どう?普通に完成させるより市松模様の方がセンスよくないですか?
今日は疲れたので以上です。
なんかもっと書きたいことあったんですが・・・